自由と人間関係
人間の幸福の要素は六つの分野があるといいました。ここでは、この分野をさらに深堀して話したいと思います。この六つの社会的欲望は二つのグループに分けられます。
最初のグループは経済、時間、健康の分野についてです。
不自由なくお金がたくさんあれば、衣食住の心配をすることも無くなり、お金について思い悩むことも無くなります。
借金も全て返済して潤沢な蓄えが有れば、経済的負担から解放され自由になる事が出来ます。
そうです、目的は働かなくてもいいように経済的に自由に成る事、自由になりたいと言うことです。
経済的欲望と時間的欲望、そして健康願望を突き詰めて考えると、その基本の欲望は同じです。 それは、「自由になりたい、自分の好きなことをしたい」ということです。
お金を稼ぐことが目的では無く、お金を沢山得たなら、仕事もしないで、自由に自分の時間を過ごしたいという結論になります。違いますか?
定年退職してからの自由では無く、若くて活力が溢れている時に自由なことをしたいという意味です
時間においても同じように、長時間働いていれば「自分の時間が欲しい」「もう残業は嫌だ」「人のために働くのは嫌だ」思うようになります。
自分が好きなように使える自由な時間が欲しいという欲望です。毎日、八時間以上も拘束されていれば、人生の三分の一は、自分の自由にならない時間を過ごしていることになります
また健康も足腰が痛ければ自由に動けませんし、病気を持っていればいつも薬を欠かす事ができません。目の不自由な人も、難聴の人も皆、何らかのサポートが必要です。
他人頼らなければ生きていけない生活は大変窮屈で不便なものです。ですから健康でいたいという願望は、自分の足で自由に動き回りたい、自分自身で自由に体を動かしたいと言う自由への願望です。
このような自由は誰もが最終的に求めることではないでしょうか。ですから人間は常に「あー自由になりたい。好きなことをしたい。誰にも干渉されたくない」と思うようになっています。
自由になって行き着く所とは
それでは、自由になってみましょう。あなたは何でもできる何でもして良いと言われたら、何をしますか。
まず最初に自分の好きなことをしたいと思うでしょう。
釣りがしたいですか、コンサートに行ってみたいですか、世界旅行もいいですね。高級料理店にも行ってみたいですね。いろんな夢や目標が目の前に広がると思います。
想像しただけでも楽しいですね。
さあじゃあ夢を、願いを叶えてみましょう。想像してみてください。自分の夢が、やりたいことが叶いました。
旅行に行って美しい景色を眺めて感動し、楽しい思い出が出来きた。
夢だったエベレストに行って登頂し、その達成感を味合う事ができた。
世界中の美味しい料理を食べ歩く事ができた。
釣りに行って大きなマグロを釣る事が出来た。
コンサートに行って憧れの歌手と一緒に写真を撮る事が出来た。
次はどうしたいでしょうか。
間違いなく多くの人は誰かにその感動を伝えたいと思うはずです。
直接話してみたい場合もあるし、写真に撮ってEmailしたり、インスタグラムにあげたり、YouTubeで流してみるなど、早くこの喜びを誰かに分かち合いたいと思うはずです。
なぜなら、喜びを分かち合うことにより、その喜びを共有したいからです。
多くの人から、共感や憧れ、賛美の言葉を受けると、さらに自分の喜びが増していくので、より多くの人や、親しい仲間と共有したくなります。
そうではないですか。
これは誰にも否定できない衝動的行動だと思います。
中には卑屈になって誰にもこの感動喜びを伝えたくないと思う人がいるかもしれませんが、本心はそう思ってはいないと思います。
ただ、自分喜びを分かち合う人が周りに居ないだけです。
人間に備わっている知識と感情と意思とは
自由についてもう少し詳しく話してみたいと思います。
すべての制約から解放されて自由になりたいと願い、自由意志に基づいて自由な時間に自由な事をできるようになりました。
人間には、知識(Knowledge)感情(Emotions)意志(Will)を備えています。
これは全ての人間が共通して持っていると思います。
知識欲の強い人は、真理(Truth)を探求していきます。
また、感情の豊かな人は美(Beauty, Art)に興味を持つでしょう。
強い意志は善(Good action)を行うようになります。
個人がそれぞれの分野で自由に行ったとしても、一定の方向性と秩序が有ります。
他人に迷惑をかけない限り、何でもしていいと言われて行うことで有ったとしても、人間が行う行動にはひとつの方向性があります。
それは美しいものを求める心、また真実を知りたいという思い、良い行いをしたいとう心が有るからです。
性善説と性悪説
人間は性善説と性悪説が議論される事が有ります。
悪が有るから善が有ると、善と悪を対等に捉える人がいるかもしれませんが、それは間違いです。
なぜなら、たとえ悪人だったとしても自分の子供には良いことをしなさいい、泥棒であったとしても、その子供には泥棒しちゃいけないと教えるではないですか。
自分は悪いことしたくしたのでは無い、仕方なく悪い事をしてしまったと言うでしょう。
逆に、良いことをしたくてしたのでは無い、仕方なく良い事をしてしまったと言うでしょうか。
生まれながらにして悪意を持った子供はいません。正しい行いを見て気分が悪くなったり憤慨したりする人はいないでしょう。
自由意志に基づいた行動は必ず善を求めるようになっています。
また美しい花畑を見て気分が悪くなる人もいないでしょう。素晴らしい景色を見る為に旅行にいき、美しい音楽を聞く為にコンサートに行くのではないですか。
このように人間は本来正しいもの真実なもの美しいもの求めるようになっています。
自由意志に基づいて行動した場合は、自然を破壊するような行為はできないようになっています。
綺麗に咲いた桜の枝を切ったりするでしょうか。澄んだ川の水をわざと汚し人はいません。必要でないのにむやみに、動物を虐殺する人もいないと思います。
時には人間の行動には、悪なる行いをする場合も有ります。
仕方なくとか、どうしようもなくてとか、他に方法がなくてとか、危害を加えるつもりは無かったが、反射的に相手を傷つける行為をしてしまったという場合も有ります。
加害者の環境や状況が、経済的、家庭的、時間的にも余裕が合って、自由意志の行動であったならば、これらの行いは防げたに違いません。
ここまでを整理してみますと、社会的欲望の内の経済的欲望、時間的欲望、健康的欲望の目指すところは、自由になりたいとい欲望です。
自由意志による自由の追求は、真理(Truth)美(Beauty)善行(Good actiom)の追求であるという結論になります。
社会的欲望の追求は、完全なる自由への追求で有る。
自由の追求は真理と美と善行の追求で有る。
次のトピック
4. 幸福感を増幅する人間関係
5. 心と肉体の成長に必要な欲望
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