謝罪と罪悪感はどうゆう関係か
傷ついた心をどのように修復するかと言う事についてお話しします。
心は肉体と同じように傷つき血を流し、重症になり命に関わるような心の傷があります。
ここでは刑罰の詳細については、専門家に任せることにしますが、犯罪被害者は刑事訴追での告訴人として、公判では証人ですが、事件に積極的に関与する事ができない為、犯罪者の捜査や訴追の状況、生い立ちや生活状況などを知る事ができません。
日本の法律は、加害者を守り、更正させることに重点が置かれているためだと言われています。
現在は犯罪被害者等が刑事裁判に直接関与することのできるかどうかの検討も始まった様ですが、傷ついた被害者や遺族が少しでも癒やされ、少しでも平穏な生活を取り戻せるように、被害者や遺族が置かれている現状を考えるべきだと思います。
心の償いはどうしたら良いのか
加害者と被害者がいる場合は、金銭的、物理的弁償とは別に、心の償いはどうのようになされるのでしょうか。
精神的苦痛にたいして慰謝料を支払らって解決する場合もありますが、目に見えない痛みをお金で相殺することなんて出来るはずもないと思うのです。
過去の判例から、それどれのケース相場というものが存在していて、あなたのケースは裁判で争った場合はいくらいくらだから、この場合は和解して多く貰ったほうが良いと薦める弁護士もいます。
心の痛みを全て、お金に置き換えて計算できると思っている事が、なんとも悲しい事であります。
被害者には、犯罪にあった被害者本人と共に遺族や家族も被害者家族となります。
時々、事件をニュースやネットで知った人々により、根拠のない噂により、心ない言葉を浴びせられたり誹謗中傷されたりして、事件後でも被害者やその家族が深く傷つくことがあります。
犯罪被害者にたいしては、励ましや優しい言葉をかけるなどして、心身ともの回復を願うのが人間としての本来の姿だと思います。
犯罪者の謝罪が、被害者の苦痛を和らげる。
加害者が犯した罪を認め反省し謝罪することにより、被害者の心の痛みや苦悩は少しずつ時間と共に癒されていきます。何故でしょうか。
被害者は加害者が犯罪を行なった動機や理由の真実を知りたくなります。
これは真実を知りたいという知識欲求に対する回答を得たい、納得のゆく説明、釈明を聞きたいと思うからです。
そして、犯罪を犯した事、悪い事をした事を認めて欲しいという承認欲求に対する要求をするようになります。
「本当の事を話して欲しい、罪を認めて欲しい」という要求は生理的欲望なので、加害者からの回答が納得し満足する回答が得られるまで続きます。
不十分な生理的欲望の満足は空腹の状態であるので、苦痛やストレスとなり不幸の状態が続きます。
このストレスや苦痛の状況から脱出するためにも、事件の真実を知り、罪を認めて貰いたいと願うのです。
加害者が特定されている場合には、その加害者に対しての怒りの気持ちや憤りは、加害者が謝罪し事実を認めることによって、被害者の心は許すか許さないかと言う点になります。
加害者が謝罪し、被害者から許しを受けたいと強く願う姿勢を見ることにより被害者の心の傷は少しずつ癒されていきます。
しかし加害者が、事件の真実を明かすことなくまた、反省もなく謝罪の姿勢も見せない場合には、被害者の心の傷は癒されることがありません。
真実を知りたい、罪を認めて欲しいと言う被害者の強い欲望が満たされないので、被害者に心の平安と癒しは訪れないことになります。
癒されない心は出血し続き、憤りと苦痛と無念な不幸な状態が続き、症状は悪化していきます。
やがて体調を崩し、躁鬱病やストレスで感情がコンロール出来なくなり、人間関係が今まで通りに出来ず、家庭崩壊や職場を退職、休職をせざるを得なくなります。
心の傷が大きくなると、自分では修復不可能となるので、治療が早急に必要になります。
それは、カウンセリングを受けるとか、専門医に見て貰うとか、お祈りなどをして応急措置をする必要があります。
肉体の傷と同じように、症状が重ければ回復するのに10年かかる場合もあるし、一生治らない場合も有ります。
人間は幸福を追求する生理的欲望があるので、満たされない欲望を抱えた人間は、不幸のままでいることの恐怖や不安から抜け出そうと必死でもがくのです。
罪悪感と良心
一方、加害者は自ら犯した罪に対して、罪悪感を感じます。
なぜ、罪悪感を感じるのでしょうか。
それは、人間には良心がそなわっているからです。良心の基準は国や民族、親の価値観によって変わってきますが、本人が正しいと思う心です。
日本人は民度が高いといいます。良心基準が高いということでしょうか。
ゴミを道端に勝手に捨てることは、悪いことであると教えられているので、日本人の良心はゴミを捨てる事は悪い事であるので、そのような行動はしません。
ナイジェリアに行った事がありますが、当時は町中ビニール袋が舞っていました。
水やジュースをビニール袋にいれて飲むからです。飲み終わったポイッと捨てます。なんら悪びれたところも無く、罪悪感は全く無いように思いました。
ポイ捨ては悪い事では無いと皆思っているし、そう行動しているからでしょう。
良心基準や民度の違いは、教育によって変わってくということでしょう。
ここで大切なのは、自分が正しいと思った事をすれば、良心が納得し自分が満足します。
しかし、自分の間違っていると思った事をすると良心の呵責、罪悪感を感じるようになります。
悪い事をしてしまったという罪悪感は存在しますが、良い事をしてしまったという善良感は存在すらしません。
良心は善のアクセルで、悪へのブレーキ
これは良心が正しい方向へ導くアクセルであり、悪い方向へいくことを阻止しようとするブレーキの役割を果たしているからです。
このように考えると、悪があるから善が存在するなどと、悪を肯定することはできません。
悪い行いをしても、仕方のない事だという考えを良心に学習させ、正しいと思う項目に入れようとする、洗脳であると思います。
独裁者は幼児期に、銃を持たせ、親を監視させ密告することが正しいと教えます。善悪の判断が出来ない子供を利用するのは、子供の良心基準が親の影響を受けない内に、親から引き離し、独裁者に有利なような教育をして、正しいと思う良心を歪めようとするからです。
聖徳太子の十七条も、モーセの十戒にも、殺人、姦淫、盗み、偽証、貪欲はよく無いと教えています。
人間は昔から、正しい事を教え良心にしたがって生きるように努力してきました。
これも人間が共に生きて、平和で幸福な社会を築くためだったのではないでしょうか。
犯罪者の社会的欲望の制限
犯罪者は罪悪感とは別に、社会的欲望の制限を受けます。犯罪者が身柄を拘束、収監されて自由が奪われるという状況は、社会的欲望の制限を受けることになるわけです。
簡単に要約して言うと被害者の幸せになると言う自由を奪ったために、その償いとして、自分の幸せになれる自由を制限されると言う制裁罰を受けるわけです。
被害者や遺族の不満は「私達は大変な被害を受けたのに、犯罪者の刑期は短く、すぐ出て来て、のうのうと暮らしているのを見ると腹が立つ」というものでした。
裏を返せば、もっと長く自由を拘束して欲しいということでしょう。
社会的欲望の制限によって犯罪者の刑事上の罪を償うことが、できるかもしれませんが、被害者からの許しがない限り、犯罪者の罪悪感は消えることがありません。
犯罪者が犯した罪に対して、許して貰いたいのは、裁判官からでも警察官からでも無いからです。
被害者からの許しが無ければ、良心の呵責や罪悪感からは解放されません。
被害者の心の傷が癒えないように、加害者の良心の呵責も罪悪感も被害者からの許しの言葉が無ければ、一生逃れられないのです。
刑期が終わったからといって、自分の罪を自分では許せないようになっています。
なぜなら、自分の中の良心がそうさせない為、自己矛盾となり自己破滅になるからです。
したがって被害者に心の平安は訪れないと言うことになります。
そのために、加害者は必ず被害者から許しを得るための努力をしなければならないと思います。
被害者の心の傷を癒すのは加害者からの悔い改めと反省と謝罪の言葉です。犯罪者の罪悪感を癒すのは、被害者からの許しの言葉です。
被害者がどうしても加害者を許すことが出来ないとするならば、それは加害者の懺悔と反省と謝罪の言葉が不足しているからだと思います。
加害者が法的懲罰だけで罪をつぐなった場合と、加害者が深く自分の罪を認め反省し悔い改めて謝罪し続けた場合とではどちらがより、被害者に心の平安をもたらすでしょうか。
加害者が死刑になることによって被害者の怒りや憤り悔しさは軽減されるかもしれませんが、虚しさや寂しさや悲しみを解放する事は永遠に出来なくなってしまいます。
もし、殺害された本人が霊界で生きているとしたら、この加害者に何を求めるのでしょうか。
他人を殺して生きる権利と自由を奪ったことの重要性を理解し、深く反省し悔い改めて謝罪してほしいと強く願うのではないでしょうか。
人間は生まれた時から平等ではない
人間一人一人の生まれた国や地域、家庭が違うので、全ての人間が等しく平等では有りませんし、亡くなる原因も時も違います。
一生楽に暮らせる人もいれば、苦労ばっかりの人もいます。
フェアーでは無いと言えば、全くフェアーでは有りません。
もし、死後の世界があるなら、人生の続きが有ります。
私たちの人生を、点で見るのでは無く、永遠の存在であると言う観点から見ると、フェアーな人生であり、死ぬことの別れも一時的な事と見る事が出来るでしょう。
蝶の一生に例えるなら、卵から幼虫になり、一生懸命に葉を食べて体を大きくします。
やがて時期が来るとサナギとなり死んだように動かなくなりますが、しばらくすると、綺麗な羽を持った蝶となって飛び立ってゆきます。
蝶は幼虫の時から沢山食べて体を大きくして、蝶になって羽ばたく準備をしていたのです。
蝶はその小さい体でも、はっきりと存在する目的を知っていたのです。
それは、本能と言う程度の心かもしれませんが、生き生きと悩む事なく生きています。
人間の脳や体の構造をいくら研究しても、何故生まれ、死んでゆくのか、何の為に生きるのかを、知る事ができません。
人生の目標を知るために生まれたのではなく、目標を知ってそれに向かって進む事が生きがいではないかと思います。
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11. なぜ劣等感を感じるのか
12. なぜ欲望には際限がないのか
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